私の文化大革命 農村に下放された青春体験記
香港在住のユアンさん(仮名)、60代、女性
出身は中国内陸部の砂漠地帯に近い大都市です
昔から漢民族と異民族との「国境」であったあたりですが、清朝のころには多くの漢族が住み着き、ユサンさん一家も漢族です
ユサンさんの祖父は国民党員でその地方ではかなり高い官職についていました
紅衛兵がやってきた!
ユアンさんが中学生のとき、1966年、文化大革命が始まりました
Q そもそも最初はどうやって始まったんですか?
ユアン 学校に行くと、集会があって、政治活動をやるといわれました
勉強はもうしない、毎日集会ばっかり
だんだんと過激化していって、気に食わない人を密告したりつるし上げたり
校長先生に三角形の帽子をかぶせて皆で暴言を吐いたりしたこともあります
少しでも、「資本主義」的なところがあるとみられると、みな、やられました
しばらくすると、紅衛兵たちが町へ現われました
みんな若い、若者ばっかりです
財産はすべて没収、それでも足りなくて庭まで掘り返し・・・
彼らは、ユサンさんの家にもやってきました
もともと国民党の幹部だったことは周囲がみな知っています。ユサンさんの母親は、家じゅうから価値のあるもの、お金になりそうなものはすべてそろえて用意して、黙って差し出しました
その中には、代々受け継がれてきたものも少なからずあったといいます
紅衛兵たちはそれでも満足せず、庭や壁に埋め込んでかくしてあるはずだ、と叫んで
庭を掘り返し、壁を壊しました
母親は本当にすべて差し出していたので、隠しているものなどあるはずもありません
紅衛兵たちが立ち去るまで、生きた心地がしなかったといいます
それでもユアンさんの家はまだ幸運だったほうだといいます
ユアン 親戚の家では、おじが殴られて財産も家具も何もかも奪われてしまい、叔父はその後、精神的に立ち直れなくなってしまいました
紅衛兵たちは没収した財産を所定の場所に集めることになっていたはずなのですが
その後一部は私物化されたとも聞いています
もちろん今でも一切、被害は弁済されていません
そして農村へ、見たことのない貧しさを目にすることに
ユアン そのあと、私は今度は農村へ行くことになりました
文化大革命当時は、学校に通っている学生たちを農村へ下放し、農作業や建設作業等に従事させていたのです
私は、出身地近くの農村に行きました
その村は特に貧しく、ある農家の奥さんは外に着ていく服がないので、ずっと家の中で過ごしていました。裸に近いかっこうなのに、服を買うお金がなかったんです
農村では都会から大勢きたせいで食料が足りなくなっていて、いつもお腹が空いていました
ユアン 当時、都市部の食生活も一応食べてはいかれましたが、決して恵まれたものではありませんでした
例えば、私の出身地でとれる作物と、隣の省でとれるサツマイモ、今なら互いに売り買いしてあっという間に市場に並ぶでしょう
でも当時は、商売をして儲けることは資本主義的だとして禁じられていたので
すぐ隣の省でサツマイモが豊作でも、私たちのところにはなかなか届きませんでした
幸運にも、1本買えたときは、両親は私たちきょうだいにそれを焼いてくれ、甘さをかみしめるように、なめるようにして大切に大切に食べました
学生なのに勉強はなし、授業はすべて政治、政治
数年間、まったくといっていいほど勉強らしい勉強はできませんでした
そもそも、政治集会、活動と称するものが「勉強」でした
そこでリーダーとなっていた男性は、文字も読めず、ただ上に言われたことを私たちや農民にやらせるだけです
でも逆らえば何があるかわからないので、みな黙って従っていました
学校の先生をみなで殴ったりしたこと、家でも、親にひどいことを言ったりしたこと
いま思い出しても涙が出ます
文革が終って、ユアンさんは家に戻り、かねてからの希望だった大学進学を目指します
祖父が国民党だっただけで出身が「よくない」ユアンさんが大学入学を認められたのは23歳になってから
その時迷わず、外国語を専攻しました
ユアン いつか外に出たい、絶対出たい、そう想って外国語を選びました
遅くなってからの進学だったので必死に勉強しました
農村での数年間、そしてその前後、知識らしい知識を身に着けることができなかった時間を、いまも返してほしいと思います
そしてユアンさんは海外生活を経て、最終的に香港で生きることを選びます
次回の記事では、なぜ祖国へ戻らなかったのか、ユアンさんの人生をさらにたどります