読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

私の文化大革命 破壊された信頼関係、善

文化大革命体験談

文化大革命で農村へ

 

YUANさんは14歳、中学2年生で初めて農村へ下放されました

最初は3か月、そしてまた3か月

さらに農村での労働はこれにとどまらず、結局大学を卒業するまで最低でも年に1度、短期間から数か月の長いものまで、何度もあったといいます

 

YUAN  とにかく、ひもじくて、毎日トウモロコシの蒸しパンしかなくて

それで最初はみんな委縮していたんですが、だんだんと大胆になっていきました

農家が飼っているニワトリやニワトリの卵を盗み、村の公営売店でキャンディに交換するんです

農村に下放された青年はみな都市部で育っていますから、生活は苦しかったとはいえ、農村よりは贅沢に慣れていました。売店にあるお菓子が食べたくて、食べたくて、それで夜中にこっそりと卵を盗みました

 

当時は、生産した作物は決められた量を国に納めなければなりませんでした

豊作の年は余りが出ましたが、凶作のときは国庫へ納めると村では食料が足りなくなりました

 

YUAN それで、お年寄りは食い扶持をもらいに近くの大きな町へ「乞食」に行くんです

夜中にこっそり村を抜け出していく

しかしだいたい見つかってしまい、集会で自己批判させられます、何度も見ました

食べるものがないからどうしようもないんです

 

文革は人と人の信頼関係を徹底的に破壊しました

YUANさんの小学校のクラスメイト37人のうち、1966年だけで3人の父親が自殺したといいます。しかし、自殺したことそのものを隠している家族も多かったので、実際何人が命を絶ったのか、今もわかりません

 

YUAN あれだけ暴れまわった紅衛兵たちも、いざ農村へ下放されるとなると泣いて嫌がりました。汽車で出発する友達のお兄さんの見送りに一緒にいきましたが汽車が動き出すと、うわーーーん、という泣き声があがります

そして下放された人たちのなかで、農村の人と結婚した人は永遠に都会には戻ってこられませんでした。今もです

 

特段の理由がなくても、戻るためには所属の生産隊長の許可が必要だったため、賄賂、時には女性に性的な要求がなされることもあったといいます

 

YUAN ある時、友達の家に遊びにいったら、お姉さんが大きなお腹を抱えて出てきました。農村から戻ってきたのだそうですが、お姉さんは未婚です

友達の親は恥ずかしがってお姉さんを一切外に出しませんでした

そして生まれた子供は、そのままでは戸籍がないので多額の賄賂を戸籍係に贈らなければなりませんでした

 

信頼関係の破壊は、社会人だけにとどまりませんでした

 

YUAN 学校でも密告が奨励されていました

農村から戻ってきて、一応文革が終ったとされる1978年になっても、まだ昔の先生は学校のトイレ掃除をやらされていました

教壇に立っていたのは、元建設労働者で文字がほとんど読めない男です。授業中には、長い棒をもって、毛沢東語録をみなで大声で読み上げるのですが、読み方が悪いとその棒で学生を叩くのです

大学へ進学してからも、先生が民主主義や自由という言葉を言おうものなら、学生はすぐに密告することが広く横行していました

 

いわゆる「知識人」が元の職場に復帰し始めたのは、80年代、胡耀邦氏が指導者になってからでした

 

YUAN 文革が始まった1966年から、一応終ったと感じた1978年までの12年間は、人間不信、善がない社会でした

私たちの世代は両極端なんです

うまくいって幹部まで出世した人間と、経済発展や社会の変化に取り残されたままの人間と

青春時代に何も勉強していませんから、80年代以降の経済発展では真っ先にリストラされました。私の故郷のクラスメイトは6割が失業者です。しかも10年15年とずっと失業しています

教育の空白があって経済発展についていけなかったのです

 

さらに、幸運にも幹部になった人間にも問題が起きていました

損をした青春を取り戻したい、そんな思いでワイロ、横領が後をたたないのです

腐敗の根はとても深く、一掃することは非常に難しい理由が、ここにもありました

 

YUAN 私たちの子供たち世代にも問題が起きています

私たち自身がきちんとした教育を受けられなかったので、子供たちへのしつけや家庭教育がうまくいかないのです

親たちは生活が苦しくて、しつけを気にするゆとりもありません

 

YUANさんは大学卒業後、奨学金を得て海外留学することができました

そこで知り合った外国人と結婚、中国国籍を捨てる決意をします

その後、離婚を経験して一度は沿岸部の大都市へ戻りますが、数年たたずして、香港への移住を決めました

 

YUAN やはり大陸にいては何があるかわからない。ある日突然、また紅衛兵のような人たちがきて、全てを取られてしまうかもしれない

とても怖いです

幸い、不動産ブームで中国本土に持っていたマンションが値上がりしたのでそれを売り、香港に小さい家を買うことができました

 

 

それでも、今、大陸の影響が色濃くなりつつある香港に不安を感じることがあるといいます

 

 

姿を消しつつある香港土産たち

香港プチ情報

[f:id:sironekokun:20170122185529j:plain
こんな中国風のお土産はどんどん姿を消しつつあります
中芸くらいか?今も置いてるのは
空港までも薬、化粧品、ブランドに占拠されてしまいました

我經驗的文化大革命,紅衛兵來了!

YUAN現在住香港,過花甲,女性

她老家是內陸靠沙漠地帶的大城市。此地自古以來漢族和其他民族的一種邊界,可是清朝後漢族開始定居而增加,YUAN一家也是hanzu

YUAN外祖父是當時國民黨的當地高官

 

紅衛兵來啦!

YUAN初中2年級,1966年,大陸開始文化大革命

 

記者  開始前文革怎樣開始?怎樣知道

YUAN  有一天我上學,學校有全校集會,他們說要政治活動

以後天天沒有唸書,每天有集會

後來學生集會越來越過激化,有人密告自己不喜歡的人,大家集中批評某yigeren

甚至讓校長帶三角帽子逼自我批評而大家強烈譴責她

什麼人也有資本主義的因素,馬上被打,被批評

 

過一段,紅衛兵來啦我們市內

他們都是年輕人,很年輕的

 

他們搶走家產,還不夠挖掘前庭

紅衛兵到YUAN家也來啦

原來她的外祖父當過國民黨老幹部,此事大家所知道,不可避免de

YUAN媽媽收集家中所有的有價值的東西,錢,金銀,古董其他,全部給紅衛兵

其中不少他們世世代代接下來的貴重品

 

可是紅衛兵沒有滿足而他們的隊長下令,瞎猜一定瞞著前庭或壁面,大聲喊著挖掘前庭,打壞家屋壁面

 

但是YUAN媽媽所有的東西全部拿出來,一個也沒有隱藏的

她一家人,紅衛兵走了以後有才會呼吸的感覺

還是YUAN一家還屬於運氣好

 

YUAN wo親戚一家,紅衛兵亂打叔叔,搶走了一切家產,後來叔叔打擊太大,他瘋狂了

他們搶走的財產,原來按規定的話集中一個地方,拖國家管理

但是實際幾個人私藏,到現在沒有一切賠償

 

下放農村,目睹沒看過的苦境,窮,窮,窮

 

YUAN   然後我去農村

文革時候,年輕學生,他們是為知識分子,被下放農村而從事農業,建設等

我被下放的我老家不遠的農村

但是那個村真窮,有的農婦她沒有買衣服的錢,整天在家不出來

幾乎沒穿衣服

農村從收容城市來的學生,人數多,村里糧食開始不夠,我們天天餓了

 

YUAN  當時大城市也生活沒有富裕,才會過日子

比如我老家附近有玉米產地,臨近的省是白薯產地

現在的話,互相買賣,玉米白薯都馬上上市

但是那時候通過買賣,就是資本主義,不要賺錢!

鄰近豐收的白薯也幾乎沒有上市

有時偶然能買到,媽媽給我們做烤白薯,可是我們很愛惜,一口一口慢慢的吃

 

學生上學,沒有上課,天天喊政治!政治!

文革幾年,我幾乎沒有唸書

他們主持的政治集會,活動,就是但是的學習內容

活動主持人,領導,他不識字的男人,他盲目的下令上級指示的內容,學生農民都無法抵抗而默默的服從

因為一提疑問有什麼報酬,大家都怕

 

我現在也想起來,大家打老師,甚至回家對爸爸批評等,不可停止落淚

 

文革結束,YUAN能回家,她從來希望上大學

外祖父國民黨高官的YUAN,所謂家庭背景不太好,所以23歲才能上大學

她選擇學外語

 

YUAN  我一直願意出國,一直想將來一定去海外,所以選擇學外語

我23歲才上大學,年紀大了,所以很認真學習

在農村的幾年,文革前後的幾年,幾乎不能學習知識,就是浪費青春

誰還給我那青春時間

 

YUAN 然後經過國外生活,最後她選擇在香港生活

 

下次介紹YUAN為什麼不會老家,她的決心如何

 

 

 

 

 

 

 

 

<  

 

 

 

 

china 1966

文化大革命体験談

 

Yuan living in Hong Kong (pseudonym), 60s, female

 

Came from  a big city close to the inland desert area in China

 

Although it was a "border" between the Han people and foreigners since long ago, many Han people settled end of  the Qing Dynasty, Yusan family is also boing to Han

 

 Yusun's grandfather was a National Party member and had a considerably high position in the provinces

 

 

 

The Red Guard has come!

 

When Yuan was a junior high school student, the Cultural Revolution began in 1966

 

Q How did it start at the beginning?

 

Yuan  When I went to  school, there was a gathering, and it was said that I will do political activities

 

I will not study anymore, only everyday meetings

 

It gradually became more intensified, informing and hanging up people who do not like it

 

Some principals covered a triangle hat and spit out everyone else

 

Even a little, if it seems that there is a "capitalist" , no one channt escape

 

 

 

After a while, the Red Guards appeared to the town

 

Everyone is young, all are young

 

 

 

All property has been forfeited, even then it is not enough to dig up to the garden ...

 

They came to Yusan's house, too

 

The surroundings all know that it was a national party executive in the first place. Yusun's mother prepared everything that was worthwhile from the house, all that was going to be money, and gave it out silently

 

Among them, it is said that there were not a few things inherited from generation to generation

 

Red guards are still not satisfied, they screamed that they should be hidden in the garden and wall

 

I dig up the garden and broke the wall

 

My mother really gave it all out so there is nothing to hide

 

I say that I did not feel alive until the Red Guards gone away

 

Still he says Yuan's house is still lucky

 

 

 

In the house of Yuan relatives, my uncle was beaten, property and furniture were all deprived, and my uncle was not able to recover mentally afterwards

 

The Red Guards are supposed to have collected the forfeited property in a predetermined place

 

I have also heard that some of them have been privatized since then.

 

Of course, even now, damage has not been paid at all

 

 

 

And to the rural village, to see the poverty which I have not seen

 

Yuan After that, I decided to go to a rural area this time

 

At the time of the Cultural Revolution the students who attended school were released to rural areas and engaged in agricultural work and construction work

 

I went to a rural village near my hometown

 

The village was particularly poor, and the wife of a farmer stayed home all the time because there are no clothes to wear outside. Even though she's pretty close to naked, I did not have any money to buy clothes

 

In rural areas, food was running out of lots of food from urban areas, and I was always hungry

 

 

 

At the time of Yuan, the diet of the urban area was eaten at least once, but it was never blessed

 

For example, coon that can be taken at my hometown and sweet potatoes that can be taken in the neighboring provinces, now they will buy and sell to each other and will line up in the market in no time

 

But at that time, it was forbidden to capitalize on making money and doing business

 

Even if sweet potatoes are rich in the province next door, it did not reach us easily

 

Fortunately, when I was able to buy one, my parents baked it for our siblings, cherished it sweetly, carefully and carefully ate it carefully

 

 

 

Although I am a student, I do not study, all my classes are politics, politics

 

For several years, I could not study at all like studying

 

Initially, what we call political meeting, activity was "study"

 

The man who became the leader there, can not read the letters, just let us and the farmers do what I said above

 

But since I do not know what will happen if I go against it, everyone kept silent and obeyed

 

 

 

Having struck a school teacher with everyone, even at home, having told bad things to their parents

 

Tears come out even though I remember now

 

 

 

 

 

Upon completion of the civilization, Mr. Yuan returned home, aiming for going to university which was a long-awaited hope

 

Just because my grandfather was the Kuomintang Party "Better" Euan was admitted to the university since I was 23 years old

 

At that time I did not hesitate and majored in a foreign language

 

 

 

Yuan I want to go out someday, I want to absolutely want, I thought so, I chose a foreign language

 

I studied desperately because I was going on to college after I was late

 

I would like you to return the time in rural villages, before and after that, when I was not able to wear knowledgeable knowledge

 

 

 

And Ms. Yuan goes abroad and finally chooses to live in Hong Kong

 

In the next article, I will follow the life of Yuan, why I did not return to my country

 

 

 

 

香港プチ情報

香港プチ情報

せっかく香港の話を書くので、白猫なりのプチ情報を

お役に立てば幸いです

 

白猫はジョンローンのファンで、彼がかつて住んでいた場所を尋ねたことがあります

九龍の海近く、繁華街の裏手のほうにその場所はありました

今は当時のビルはなくなってしまって、新しいビルにレストランが入っています

ジョンローンをはじめ、香港の俳優さん、カンフースターたちの中には昔街頭で興行していら京劇の劇団に住み込みで修行した人が少なくありません

キョンシーで有名なラムチェンインもそうです

彼らの生活は苦しかったらしく、練習以外はほとんど外にいけず、もちろん学校にいけず・・・

 

70-80年代、香港映画のあのアクションの陰にはこんな物語があったんですね

 

ジョンローンが住んでいた京劇の劇団があった場所は、香港歴史博物館から海側に公園というか、広場がありますが、そこの九龍側、路地を入ってすぐのところです

当時は路地のすぐわきまで海岸でしたから、海を見ながらカンフーの修行をしたのかもしれません

ちなみに、すぐ近くの麺屋で聴いてみましたが、その話は誰も知らなかった・・・

むしろ、先日閉店してしまいましたが、人気猫クリーム兄貴がいた店がある広場といったほうがわかりやすいかも

 

 

 

休日はホームウェイでご家族やご友人、恋人とゆったりと贅沢な時間を楽しもう!
詳しくはこちら

香港、今昔 懐かしく思う方にも、まだ行ったことない方にも

香港に生きる人々 

そもそも白猫が香港に行くようになったのは、はるか遡ること、20数年前

仕事で海外へ行くことになったのですが、当時三国志の熱烈なファンだった私は(いまもですけど)

北京、そうでなければせめて上海!と強く希望していました

 

が、しかし、そっちには駐在の枠がない、お前、広東へいけと言われたのです

実は白猫、香港にはいったことはありましたが、わずか数日の買い物旅行、広東語は当時は使わないで仕事していたので、ほとんど話せず・・・

それでもやむなく広東の大都市へ赴任いたしました

 

住めば都といいますが、人懐こい広東人、そして20数年前にもかかわらず、彼らはすでに香港台湾の影響を強く受けていて、しかも懐具合までもリッチでした

それまで中国へいくと、どうしても現地のスタッフと自分らとの所得格差みたいなものを意識してしまったものですが、広東では豊かな人が多かったせいか、さほど気にしないで済みました。

というか、銀行へいってお金引き出すのが一苦労なので、事務所スタッフに毎回みんなまとめて頼んでいたんですが、忘れて手元にお金がないときなどは、ローカルスタッフが「貸しましょうか?」といってくるほどで・・・

しかし、当時は広東の珠江デルタに日本人はまだまだ少なく、もちろん日本食売ってる場所もレストランもほとんどなく、買い出しによく香港へ通っていました

 

あの頃は、中華風の安い雑貨をおいた土産物屋がぎっしりと軒を連ね、見て歩くだけでも楽しいものでした

女性なら何日あっても足りないかと思われるほどです

お腹が空けば、その辺の路地に飛び込めば、麺などの軽食から漢方茶、サンドイッチなどまで食べさせる喫茶店風ファミレスまでなんでもあり、しかも安かった!

 

それががらっと変わったのはここ数年

白猫が常宿にしているカオルーンホテルのまわりには、とうとう朝ご飯を食べる場所もほとんどなくなってしまいました

ブランド品、時計、宝石、通りはそんなお店で埋め尽くされ、家賃高騰でずーーっと通い続けたお店がどんどん閉店、または郊外へ移転していってしまいました

 

お土産にちょうどよかった雑貨屋は今はほとんど残っていません、露店街へいけば雑貨は買えることは買えますが・・・

 

そういうわけで、白猫、次回の香港ではとうとうカオルーンではなくて、他のホテルにしようかと検討中です

地下鉄駅直結で遅くまでまわりは人が多く安全でしたし、万が一タクシー運転手が知らなくてもペニンシュラの裏だよ!といえばわからない人はいないので、とっても便利だったんですが・・・

 

深夜特急で有名なチョンキンマンションは健在です

 

 

私の文化大革命 農村に下放された青春体験記

文化大革命体験談

香港在住のユアンさん(仮名)、60代、女性

出身は中国内陸部の砂漠地帯に近い大都市です

昔から漢民族と異民族との「国境」であったあたりですが、清朝のころには多くの漢族が住み着き、ユサンさん一家も漢族です

ユサンさんの祖父は国民党員でその地方ではかなり高い官職についていました

 

紅衛兵がやってきた!

ユアンさんが中学生のとき、1966年、文化大革命が始まりました

Q そもそも最初はどうやって始まったんですか?

ユアン 学校に行くと、集会があって、政治活動をやるといわれました

勉強はもうしない、毎日集会ばっかり

だんだんと過激化していって、気に食わない人を密告したりつるし上げたり

校長先生に三角形の帽子をかぶせて皆で暴言を吐いたりしたこともあります

少しでも、「資本主義」的なところがあるとみられると、みな、やられました

 

しばらくすると、紅衛兵たちが町へ現われました

みんな若い、若者ばっかりです

 

財産はすべて没収、それでも足りなくて庭まで掘り返し・・・

彼らは、ユサンさんの家にもやってきました

もともと国民党の幹部だったことは周囲がみな知っています。ユサンさんの母親は、家じゅうから価値のあるもの、お金になりそうなものはすべてそろえて用意して、黙って差し出しました

その中には、代々受け継がれてきたものも少なからずあったといいます

紅衛兵たちはそれでも満足せず、庭や壁に埋め込んでかくしてあるはずだ、と叫んで

庭を掘り返し、壁を壊しました

母親は本当にすべて差し出していたので、隠しているものなどあるはずもありません

紅衛兵たちが立ち去るまで、生きた心地がしなかったといいます

それでもユアンさんの家はまだ幸運だったほうだといいます

 

ユアン 親戚の家では、おじが殴られて財産も家具も何もかも奪われてしまい、叔父はその後、精神的に立ち直れなくなってしまいました

紅衛兵たちは没収した財産を所定の場所に集めることになっていたはずなのですが

その後一部は私物化されたとも聞いています

もちろん今でも一切、被害は弁済されていません

 

そして農村へ、見たことのない貧しさを目にすることに

ユアン そのあと、私は今度は農村へ行くことになりました

文化大革命当時は、学校に通っている学生たちを農村へ下放し、農作業や建設作業等に従事させていたのです

私は、出身地近くの農村に行きました

その村は特に貧しく、ある農家の奥さんは外に着ていく服がないので、ずっと家の中で過ごしていました。裸に近いかっこうなのに、服を買うお金がなかったんです

農村では都会から大勢きたせいで食料が足りなくなっていて、いつもお腹が空いていました

 

ユアン 当時、都市部の食生活も一応食べてはいかれましたが、決して恵まれたものではありませんでした

例えば、私の出身地でとれる作物と、隣の省でとれるサツマイモ、今なら互いに売り買いしてあっという間に市場に並ぶでしょう

でも当時は、商売をして儲けることは資本主義的だとして禁じられていたので

すぐ隣の省でサツマイモが豊作でも、私たちのところにはなかなか届きませんでした

幸運にも、1本買えたときは、両親は私たちきょうだいにそれを焼いてくれ、甘さをかみしめるように、なめるようにして大切に大切に食べました

 

学生なのに勉強はなし、授業はすべて政治、政治

数年間、まったくといっていいほど勉強らしい勉強はできませんでした

そもそも、政治集会、活動と称するものが「勉強」でした

そこでリーダーとなっていた男性は、文字も読めず、ただ上に言われたことを私たちや農民にやらせるだけです

でも逆らえば何があるかわからないので、みな黙って従っていました

 

学校の先生をみなで殴ったりしたこと、家でも、親にひどいことを言ったりしたこと

いま思い出しても涙が出ます

 

 

文革が終って、ユアンさんは家に戻り、かねてからの希望だった大学進学を目指します

祖父が国民党だっただけで出身が「よくない」ユアンさんが大学入学を認められたのは23歳になってから

その時迷わず、外国語を専攻しました

 

ユアン  いつか外に出たい、絶対出たい、そう想って外国語を選びました

遅くなってからの進学だったので必死に勉強しました

農村での数年間、そしてその前後、知識らしい知識を身に着けることができなかった時間を、いまも返してほしいと思います

 

そしてユアンさんは海外生活を経て、最終的に香港で生きることを選びます

次回の記事では、なぜ祖国へ戻らなかったのか、ユアンさんの人生をさらにたどります